相模の屋根・丹沢山塊
丹沢山塊(3)大山

丹沢のシンボル的存在の大山(古くは雨降山ともいった)は、
関八州の雨乞いの霊場でもあり、
江戸時代には信仰の対象としての「大山参り」が大変盛んであった。
記録によると大山参りのための大山講が江戸を中心に各地に組織され、
登山ができたのは夏場の短期間かつ許可が必要だったにもかかわらず、
一夏に10万人近くもの参拝客があったという。



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丹沢山塊」(2) 「丹沢・大山」




写真:端正な山様の丹沢大山


資料:大山登山主要ルート

大山ケーブルカー http://www.ooyama-cable.co.jp/oyama.html





丹沢山域で今も神仏的歴史を育んでいるのは何と言っても「大山」であろう・・、 


人々は何時の世になっても、特に昔の人々は近隣に聳える姿、形の良い端正な峰を観ると、ついつい崇めたくなるらしい。

大山は丹沢山塊の東端に聳え、横浜や関東西部の平地から眺めると、三角錐の美形が鮮明に望めるのである。


大山は古来より、山頂に大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)、中腹に雨降山大山寺(別名 大山不動尊)、山麓には日向薬師(ひなたやくし)があり、阿夫利神社は、大山を御神体とし山頂には霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称されたという。

創建は社伝では、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、西暦にして紀元前のことである。
その後、奈良時代の僧・良弁(ろうべん・僧正)によって大山寺が、大山阿夫利神社の神宮寺として開山されたといわれる。


神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院にことである。

因みに、西暦820年、空海(弘法大師)が47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。

山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。


藤原徳一(とくいつ、760年〜835年)は、奈良期から平安前期にかけての法相宗(奈良仏教)の僧で、父は大和政権中枢の藤原仲麻呂の十一男と伝えられている。

東北文化の開祖的人物で、小生の田舎、故郷(いわき市常磐)の古刹「長谷寺」の建立者ともされている。


天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られたとされ、古刹中の古刹ともいえる。。

中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けている。

江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。

明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。
この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称されている。



丹沢のシンボル的存在の大山(古くは雨降山ともいった)は、関八州の雨乞いの霊場でもあり、江戸時代には信仰の対象としての「大山参り」が大変盛んであった。

記録によると大山参りのための大山講が江戸を中心に各地に組織され、登山ができたのは夏場の短期間かつ許可が必要だったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。

古典落語の中にも「大山参り」という楽しい話がある。



ここで落語・「大山参り」を一席、否、半席・・、

・・・席亭さんの住む長屋の連中と大山参りに行くことになった。江戸の庶民にとって大山参りは観光旅行みたいなものでして、伊勢参りと合わせて大きな楽しみとなっていた。今では新宿から小田急線であっというまに着いてしまう。ケーブルカーなどもあって旅行気分とはいかないかもしれないが、当時は歩き旅ですから時間も費用もそれなりにかかったという。貧しい長屋のこと、かかる費用の大半は席亭さんが請合う。高輪の大木戸(番所、関所)を抜けて品川で一泊。翌日は神奈川宿で宿泊して、厚木村の温泉で一泊して、翌日は大山参りというゆったりとしてスケジュールを組んだ。なにしろ子供連れでもあり、余りハードなスケジュールは組めなかったのである。出発してから途中あちこち寄りながら、品川宿にチェックインとなった。長屋の連中は開放された気分で飲めや歌えの大騒ぎ。女房の目を盗んで女郎買いにいく野郎もいたというわけ。翌日は朝餉も済んで旅支度を整えた一行は東海道を下っていった。やがて川崎宿に着いた。一行は川崎大師を参詣してから神奈川宿は、いまの横浜である。港には巨大な橋や恐ろしく高い建物などがあり、近くには中国人街などがあった…というのは嘘でしてね。当時は閑静な漁村でしたな。 一行は船に乗って金沢八景に向かう。金沢八景の風景を楽しんだ後に、一行は厚木宿に向かった。海老名村をぬけると相模の渡しでして、ここで、厚木村との天気の分かれ目と言われた。川を渡ると厚木村に入る。厚木村の向こうに大きな山が見えるが、これを何を思ったか・・・、
「席亭さん、ありゃは富士山じゃねえですか。」
なんていう御仁がでできた。
「あれは、大山ですよ。 これからあの山に登るんです。」
「あ、そう、富士にしちゃちと形が小さい?…と思ったんだけどね。 大山か。」
「さあ今晩は厚木七宿、 温泉だよ。」
厚木には七沢、上古沢、広沢寺などなど、名湯が多い。 旅人はここらで一泊して大山に参るのである。

大山のお参りも無事にすんで、これから江戸へ帰る道順で、神奈川の宿へ泊まった。気が楽になった「熊」が酒を飲んで風呂の中で大暴れをした。怒った「八」と「辰」の二人は熊公の頭をクリクリ坊主にしてしまった。江戸へ戻った熊は、
「アッハッハッハッハ。いい気持ちだ。いくら怒ったって、頭の毛はちょっくらちょっと伸びるもんじゃねえ」、
「考えてごらんよ。お山も無事にすんで、うちへ帰れば、お怪我(毛が)なくって、先ずは”おめでたい”」
・・・



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叉、大山の石尊大権現は「ばくちと商売」にご利益があるともいわれ、大山参りは一層賑やかになったともいわれている。

「大山参り」は、宝暦年間(18世紀半ば)に始まったともいう。
特に、6月27日から7月17日までの20日間に限って、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に、行楽を兼ねて参詣するのが江戸の夏の年中行事だった。

江戸庶民は「大山講」を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端(隅田川で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離(みずごり・体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀とした。
これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているともいわれる。

当時の大山参りルートは3つあったらしい。

(1)厚木往還(八王子〜厚木)
(2)矢倉沢往還(現在の国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋〜津久井)

因みに、三軒茶屋(さんげんぢゃや)というのは現在の東京都世田谷区の地名である。
江戸中期以降、社寺参詣ブームで賑わった大山道と津久井道の分岐(追分)付近に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来する。
この呼び名は文化文政(江戸末期の頃)の時代には既に一般的なものとなっていたようである。



「大山道」について・・、

太山道と言われる道は関東近辺に沢山ある。
それだけ大山信仰が盛んだった証拠で、まるで世界の道はローマに通ずると言われるように、関東の全ての道が大山につながっているともいわれrた。
 
江戸(東京)中心から最短街道は厚木大山街道(246号線)、別名矢倉沢街道と言う。
青山通り、玉川通りから、多摩川を渡り厚木大山街道と名を変えて、町田、座間、厚木、伊勢原を通って大山の麓につながる。
江戸からのもう一方の行き方は東海道を下って横浜(神奈川宿)の先、戸塚から右に折れて長後街道から厚木の南を抜けて伊勢原に出るコースもあつ。
矢倉沢街道と東海道との中間を並行して走る中原街道で進み前記長後街道で右折する方法もあった。
 
また、八王子から南下する方法と、それより都内よりの府中から南下する方法もあり、これは中山道の板橋から富士街道を通り田無を抜けて、府中に入り、町田で矢倉沢街道に合流する。

現在でも関東各地には、当時の大山街道を偲ぶものとして「道標」の石柱が建っている。
「道標」は当時の人たちが大山詣りの際、道に迷わないように建てた道路標識である。



「 不動まで 行くのも女 だてらなり 」



石尊大権現で知られる山頂の阿夫利神社本社の中にある大岩は、かって石尊大権現(石尊信仰)の聖地で、江戸時代は女人禁制であったという。

女性が登れるのはいまの阿夫利神社下社までで、山頂の奥ノ院へは登れなかったという。


又、「大山参り」をする江戸庶民は、出立の前に水垢離(みずごり・神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をするのが仕来りだったという。

その時の唱えに「南無帰命頂礼、六根罪障(ろっこんざいしょう:六根に生ずる罪障)、懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう:六根が福徳によって清らかになること)・・・・」と言葉を発し、人々は全身を清めるために大山を目指したのである。


下社から山頂へ登る途中には、同じ様な文字が彫ってあり、石尊大権現の石柱が目につく。
又、石柱には「これより右富士浅間道」とあり、昔は富士講による富士登山ル−トに大山から富士へ、また富士の帰りに大山へ寄るのが通例だったともいわれる。

現在は明治期の神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊は分離され、廃仏棄捨においても大山寺は幸いにして残され今も参拝者が絶えない。


大山街道が、この大山の懐に入って来ると沿道に何々坊とか、先導師何々と書かれた看板が目につく。 
これが「宿坊」(先導師旅館)といわれるもので、明治期には約120戸もあったという。

現在も大山詣りは盛んで、夏の参拝期間になると、東京をはじめ関東周辺から多くの講中がお詣りにやってくる。
今、講中宿は50戸余りになっているが、参道階段の両側は大山土産物店が軒を並べ賑わっている。


次回は、 丹沢を歩く・・、   丹沢山塊(4)へ



        
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